百済の面影・扶餘の旅

日本とのつながり

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わが国と百済の外交関係は4世紀後半から始まり、高句麗・新羅に比べて友好的であった。とくに百済の後期、泗沘時代(538年 - 660年)には同盟関係にあった新羅との対立関係が生じたため、聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献した。

『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され、百済から輸入された文物も多い。有名な文化財に奈良県の石上神宮に伝わる「七支刀(ななつさやのたち、しちしとう)」がある。奈良県天理市の石上神宮に「六叉の鉾(ろくさのほこ)」として伝えられてきた鉄剣である。

日本書紀の神功皇后摂政52年条には、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡 (ななつこのかがみ)」とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があり、当時、高句麗の圧迫を受けていた百済から倭国へ軍事的援助の礼として贈られたとされる。七子鏡については、アメリカのボストン美術館所蔵の、丸い突起が同心円上に七つある銅鏡がそれではないかといわれている。

現在の扶餘郡は奈良県の明日香村、福岡県太宰府市と姉妹都市の関係にある。

(2011年10月1日掲載)

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